大事なことは思考を妨げず、進化していくこと。
http://d.hatena.ne.jp/higayasuo/20090612/1244772658
http://d.hatena.ne.jp/Nagise/20090616/1245156879
結局、刀と薙刀みたいな関係なんではないかと思う。
どっちも斬るという機能を有する。薙刀の場合は刀身に棒を備え付けた結果、遠くの敵も斬ることができる。
でも、どっちが使いやすいかという話になると結局、使ってる立場の意見はいつも自分の使ってる武器、高じて自分の流派が最高と考えるもんなんだよなぁ・・
ほかにもこんな例え
ライフル銃より拳銃のほうが機動性は高いけども、長距離での狙撃には向かない。
けれども拳銃に高性能照準スコープをオプションで付けるから狙撃でのデメリットを解消できる。けれど、高性能照準スコープの使い方という学習コストは発生する。
で、ここからが本題。
学習・鍛錬に費やした時間はその人にとって積み上げた自信になります。
そして、この自信をくずすことを普通の人は嫌うのです。
それは長い思考の妨げになるからとも捉えることができます。
たとえばJavaで積み上げてきた自信があったとして、それを「じゃあRubyで」と言われると大多数の人がJavaより自信がない状態、もしくは長い思考状態を急に断たれて新たな思考状態からスタートすることになります。
このような学習・鍛錬コストの無力化を忌み嫌う行為が今回の論争の本質ではないかと考えます。
しかし、私はこの行為が悪いこととは思いません。これは言語、それを取り巻く環境の進化に必要な因子であると思います。
例えば、EclipseがRubyを大々的にサポートして色々なコード補完ができるようになったり、Javaでもコンパイラが進化して、型は意味解析時にバイトコードに対して補完するから、型は書いても書かなくても良いよとかになったり。
大事なのは問題点を汲み取り、進化のための思考を継続し、次の一歩を踏み出せるかどうかです。